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@古野・私の履歴書・プロフィール/その1。丁稚奉公?から

@古野・私の履歴書・プロフィール/その1。丁稚奉公?から

 

非常に多くの転職を繰り返し、広告業界に身を置いてきて、早36年の年月を超えました。

アドマンとして、広告マンとして、マーケターとして8つの会社で多くの仕事を、業務を経験してきました。

そんな、私の経験をお話しします。

この36年、本当に色々なことやってきました。

お手伝いしてきた業務は

本当に多岐にわたっていると思います。

 

 

 

大学を中退して、広告業界に飛び込む

 

初めて社会に飛び出した、最初の1社目、1984年に入った会社は、一応、定款は広告代理店でしたが、実際には、販売促進に関するプロモーション業務が主な業務でした。

 

その中で私が担当していたのは

【 キャスティング 】

女子大生の手配師?でした。(笑)

 

当時は、スーパーでのマネキン販売がオバちゃんではなく、デモンストレーター販売、キャンペーンガールと称して女子大生を起用することが流行っていました。

 

毎週土曜、日曜に、その女子大生を派遣して管理していたのが私の主な担当業務。

 

そのほか、時折、博覧会イベントでの某有名企業のパビリオンへイベント・コンパニオンの派遣とか、また、女子大生がテレビCMに出演することも流行っていたため、そのオーディションへのキャスティングとかも良くやっていました。

 

多い時で、1日に延べ50人〜100人くらいオーディションに派遣、動員したこともありました。

 

その他、所属の女子大生リストを増やすために、女子大や短大の校門で日々、スカウトに奔走したこともありました。

ナンパじゃないですよ(笑)

 

 

会社としては、その他、ラジオ番組の制作とか、各種販促イベントや、たま〜に、テレビCMの仕事も…。

 

丁稚奉公?時代でしたが楽しい思い出に残っている仕事もあります。

 

ある夏の日、先輩の手伝いで、セントラルパークでの屋外ステージの音楽イベント。

 

良いもの見せてやる!と言われて、パシリのスタッフとして奔走、でも、暑かったですが舞台袖で見ていた大トリの歌手、

中村あゆみのコンサート。

感動しました!

 

「翼の折れたエンジェル」のときなんか、舞台袖にいた私に、中村あゆみがウインクしてくれたような…、カッコ良かった〜

ドキッとした思い出があります。(笑)

 

 

しかし、こんな事も色々ありましたが、その頃は、女性不信にもなり、体調も壊し、正直、自分が担当していた仕事は、二度とやりたく無い仕事でしたね…。(笑)

 

2年の我慢が限界でした。

 

当時は、朝9時半から、夜は、10時、11時、12時は当たり前の毎日、酷い時は徹夜。

 

休みは3ヶ月に一度あるかないか、しかも、貰った給料は月10万円!!税込!社会保険もなし。

社員じゃないですよね〜。

でも、そんな生活を2年続けました。

 

まともに生活なんかしていけない。先輩たちには申し訳なかったですが、本当に悩みました。

悩みに悩んで、一大決心して退職。

 

今でこそ、転職は当たり前の世の中ですがちょっと気軽過ぎない!?っとも感じますが、当時は、転職というとかなりの精神的決意がいりましたですよね。

 

もっと、広告代理店らしい仕事がしたいと思い、転職した2社目には、知り合いでもあった代理店の社長に、自分からお願いして

営業マンとして採用してもらえました。

 

 

 

「心を大切にコミュニケートします。」に出会う。

 

もっと、広告代理店らしい仕事がしたいと思い、転職した2社目は、総合広告代理店。

当時の社長、専務たちは「我々は代理店で無く、AE/アカウント・エグゼクティブ集団である。」との拘りもあって、代理店と呼ばず、対外的には広告会社であると称していました。

 

この会社では、今の自分の本質的なものを得た様な気がします。

また、自社の理念の基礎を得たようにも思います。

 

因みに、現在、弊社の社是

「心を大切にコミュニケートします。」は

この会社の社是、キャッチフレーズでした。

 

さて、私の履歴書、プロフィール・2です。

 

私の今の礎ができたと言っても過言ではない総合広告代理店である2社目です。

 

名古屋と言う地域の広告業界は、ちょっと独特です。

 

4、50年くらい前の、この時代、結構、独立創業した広告代理店が多かった地域です。

中小零細企業が大半ですが中には全国区にまでも成長した企業もあります。

今でも、中小零細の広告代理店が多い地域でもあります。

 

昔はよく、「スポンサーや媒体社、プロダクションは数が限られているのに代理店は星の数ほどある。」なんて揶揄された時代もあったほどです。

 

私が転職した、その代理店は、若い社長と専務の二人でその頃に始めた会社でしたが

 

日本で初めて結婚式場にテレビCMの広告活動を提案、導入させた会社でもありました。

 

そして、長きにわたり、その結婚式場の広告活動を総合的に一手に請け負っていました。

まさに、専属広告代理店と呼ぶに相応しかったと思います。

 

30数年前の広告代理店というと、多分、就職希望、憧れの業種の一つでもあったような気がします。

 

カッコ良さそう〜な?その会社で当時、私の名刺の裏に印刷された1行のコピー、

 

「 心を大切にコミュニケートします。 」

 

正直、ダサいなぁ〜って、思っていました。

 

しかし、数十年の時を経て、現会社、リップル設立時の理念を考えた時、このコピーほど、広告会社、代理店の使命、理念を、業種をシンプルでズバリ、言い当てている。

 

このコピーの凄さを、奥深さを改めて感じました。

 

因みに、弊社を設立する時は、この会社の専務取締役であった方に弊社の役員に就任して頂くお願いと共に、このコピーを使わせてもらう事も許諾して頂きました。

実は、この方が私の仕事に於ける師匠でもあります。

 

 

この会社が取り組んでいた新事業に、ハワイでのビデオ・プロダクション事業がありました。

 

在職した3年間の内、最初の2年は、その事業の日本での営業業務を担当していました。

 

一度もハワイにはいけませんでしたが…。(笑)

 

 

当時のハネムーン旅行先、

第一位は「ハワイ」。

 

日本で申し込みをしておけば、ホノルル空港に着いた時に、空港ロビーでカメラマンがお出迎え、その日1日、二人を主役に市内観光をプロのカメラマンによりビデオ撮影をします。

 

そして、帰国までに、お洒落に編集した二人だけのオリジナルのハネムーンビデをホノルル空港にて、お渡しするという企画。

 

実際の商品も見ましたが、凄い!!感動した!って、思いました。

 

この商品を全国各地の結婚式場や旅行社に委託販売をお願いする、営業を担当していました。

 

現代マーケティングで言う、

「クロスセル」のお願いと言うやつです。

 

ルートセールスとロードのような出張が主な仕事でした。

 

しかし、経費が余り掛けられなかった事もあり、出張時の主な宿泊先は、サウナやカプセルホテルでした。

 

関東地区はもちろん、北は宮城県気仙沼、新潟や北陸、関西方面など、当時では不便だったところも含めて色々なところへ行かせて貰いました。

 

でも、いくら、素晴らしいと思った商品でも、中々、バズらなかったですね。

ここでも、多くのことを学びました。

 

結局、会社としても、んっ? 億円の投資を…。

結局、事業は実りませんでした。

 

そして私は、本来の代理店の営業へと配置転換となります。

 

異動後は、毎日、毎日、新規開拓の飛び込み営業の日々。

 

暑い夏、酷暑の夏でもジャケットを着たまま、足が棒になる程、毎日、歩き回っていました。

 

本当に中々、仕事やクライアントさんの開拓は全くと言って、できませんでした。

 

ようやく、取り組めた仕事は、印刷物の仕事やイベント制作の仕事が多かったですね。

 

量販店での各種集客イベント、メーカーの新商品発表会や講演会新聞や求人誌の求人広告などが主な仕事でした。

 

イベント流行りの時代でもありました。

 

イベントの企画制作、ディレクション、プロデュースが多かったです。

 

TVCMなどの電波絡みの仕事は、全然、取れなかったですね。

 

ここでの年収は年俸制で150万円。

当時の新卒の初任給が約240万円の時代。

 

3年勤めましたが、やはり生活は苦しく、

 

イベント会社に転職…することになります。

 

 

 

イベント・プロダクションへ、あの博覧会イベントで…

 

転職、3つ目の会社になります。

イベント制作プロダクション。

 

2つ目の広告会社で私が担当していたクライアントさんの中で大手流通チェーンがありました。

 

その本部の販促部に、集客イベントの、ご提案等でお仕事を頂いていました。

 

当時、その担当マネージャーからは結構、可愛がって頂きました。

 

 

その部署で、よくお顔を拝見する同業者の方で、零細ではありましたが老舗のイベント会社の専務さんがいらっしゃいました。

 

結構、大きなプロジェクトを請け負っていた専務さんでしたが、ある時、その専務さんと偶然、同席することがあり、そのクライアントのマネージャーより、改めてご紹介を頂くことになりました。

 

その後も、ちょくちょくお会いする事が多く、ある時、会食に誘われました。

 

気軽なコミュニケーション、情報交換的な会食のつもりでしたが、あまりにも美味しい料理とお酒でして、お互い酔いも回ってきた頃でしたが、突然、

「今、いくら貰っているの?」と!

「150万円です」と返すと。

 

「240万円出すから、うち(弊社)に来ない?」と

「え〜っ!本当に〜!?」っと、

驚いていると、すかさず、

「車の費用も出してあげるし、稼いだ利益の1/3まで追加で出す!」と

初めての経験でした、そんな事言われるの…。

 

その数ヶ月後に、そのイベント会社に転職、イベント専門に仕事をしていく事になります。

 

お芝居も入りましたけど、(笑)

一応、円満退社しての転職です。

 

最初の1年は、やはり、売り上げはキツかったですね〜。

 

でも、2年目に入る頃からでしたが、色々な仕事を請け負うようになって来ました。

小さな仕事が多かったですが。

 

 

因みに、「名古屋デザイン博」って覚えています?

その博覧会イベントで開会式典の一連の演出の中で、ある一部の演出を、

3会場全部のプロデュースとディレクションを担当する事になりました。

 

社員スタッフ、バイトスタッフ、3会場で総勢100名程の大掛かりな準備と演出でした。

 

あろうことか、その開会式直後に

私は、始末書も書いていました。(笑)

 

メイン会場、今のセンチュリーホールのある、白鳥会場のバイト・3名が遅刻しそうだったとのことで、フェンスをよじ登って侵入した為、警備員に捕まってしまいました。

 

何と、某有名国立大学・教育学部に在学中の学生でした。(笑)

 

会場内を遅刻していたバイト・3名を探しに、走りまっていた時です。

警備員に捕まっている、らしき3名を発見。

 

警備員に事情を聞くと、

「あちゃ〜!」

 

式典終了後に警備室へ責任を持って連れて行く事を約束し、直ぐに準備に従事させました。

 

3会場、無事その盛大な演出も終了し警備室へ。

 

警備責任者から責任者は誰?と言われ、当時、27歳の若造であった私は、

「私です」と言って名刺を渡しました。

 

一瞬、初老のその警備室の責任者は、「お前が〜↗︎」みたいな顔をされましたが、名刺を見て、表情が一変。

 

「あ〜、この会社はよく知っているよ!社長は元気ですか?」と。

「え〜、元気です」と一変、和やかに話し込み、最終的には、私とバイト3名に、その場合で始末書を書くことで、重々注意という事で、お咎め無しとなりました。

 

こんなエピソードもありながらもその後も、専務の仕事も手伝いながらも、大きなプロジェクトを請け負った事もあった、2年目の冬が始まろうとしていました。

 

その初冬、二人だけの忘年会。

 

酔いもまわってきた頃、冬の決算ボーナスの話になりました…。

 

本来ならば、数百万円のボーナスを貰えるはずでしたが…。

 

一変…不信感しか募らなくなりました。

 

そして、日々、悶々としていた初春頃に、大学時代からお世話になっていた、某高級和食チェーン店の広告宣伝部長から突然、初めての連絡がありました。

 

「一度、会えないか?」と。

 

 

年賀状は毎年送っていましたが、年に一度程度、突然の表敬訪問でお会いするかどうか。

部長からは連絡など頂くことはありませんでした。

 

数日後に面談に行くと、その有名チェーン店の完全子会社として、

ハウスエージェンシーを開設する事になったとのことでした。

 

そこで、本社以外のクライアントを集め、広告代理店としての事業を成立させるための営業スタッフとして来ないかとのオファーでした。

 

不信感に溢れ、悶々としていた時に渡りに船ではありませんが、導かれるようなオファーが来るとは…。

しかも、人並みの給料をくれるとのことで…。

 

当時は、広告出稿量の多いクライアントは、広告宣伝部や販促部を独立法人化して専任の広告代理店、ハウスエージェンシーを設立する会社も多少、流行っていました。

しかし、本質的に成功した会社は意外と少ないです。

 

二つ返事で快諾し、数ヶ月後の平成2年6月1日、自分の誕生日に2年勤めたイベント会社を円満に退社し、そのハウスエージェンシーに転職しました。

 

 

 

日本を代表する老舗かに料理店の子会社へ。

 

平成2年(1990年)の6月1日。

そう私の27歳の誕生日に、再び広告代理店に転職する事になりました。

 

4つ目の会社になります。

 

 

不信感に溢れ、悶々としていた時に渡りに船で、導かれるようなオファーで転職した、某有名和食チェーン店の広告代理店、ハウスエージェンシーへの転職です。

 

 

この会社では、ある時は、総合広告代理店の営業マンでありプロデューサーとして、

 

また、ある時は、そのチェーン店の宣伝部長が不在の時、担当代理として、よく飛び込み営業にて来社してくる、様々な広告代理店の営業マンの対応もする事になります。

 

 

当時の従業員、約1,500名の中で、只、私、一人だけ、全くの異業種の仕事を始める事になりました。

 

この会社で得たもの、スポンサーの立場を経験する事になり、本当に貴重な経験をさせて頂きました。

 

一円の広告宣伝費でも、信頼できない相手には、任せられない。

 

そんな貴重な気持ちを、実感を感じることができました。

 

結局、6年間・在職しましたが、これまでの業務に加えて全国誌の雑誌広告等の仕事も請け負いました。

 

この会社では、広告代理店としてのほぼ全ての業務を経験したものと思います。

 

テレビCMの仕事も本格的に経験しましたし、某大手代理店から仕事を、数件!

もぎとった?経験もありました。

 

中でも、某有名・女子マラソン選手の言葉ではありませんが

「自分を初めて褒めてあげたい仕事です」と、言えるほど、思い出深い仕事もありました。

 

 

以前、名古屋駅前にあった毎日ビル、現、ミッドランドスクエアの前にあったビルです。

 

その毎日ビルの屋上にあった、某ビール会社のネオンサイン!

覚えている方はいませんでしょうか…。

 

あのネオンサイン、私が総合的にプロデュースした仕事です。

 

しかも、全国初のデザインおよび仕様。

 

完成後の、その後も、その仕事を評価して頂いた会社から他にも色々と仕事をさせて頂きました。

 

 

この仕事は、些細な情報から、ビジネスチャンスを創出したところから始まり、プロデュース、政治力、営業力、ディレクション力を駆使して、勝ち取った仕事です。

 

ミッドランドスクエアができるまでの間、地図に残った仕事でもあり、人生の岐路にもなった仕事の一つです。

 

 

しかし、中身の濃い仕事はいっぱいできたのですが、初年度の売上額の6倍強までは増やしました。

 

しかし、分母が大きい事もあり、本体のシェアを越える売上の確保には届かず会社としての目標額には届きませんでした。

 

残念な事に、様々な諸般の事情も重なり、その子会社は閉鎖することが決まりました。

 

店舗のスタッフへの異動命令も出ましたが、自分としては未だ、この世界で仕事がしたい気持ちが強かったので、それを固辞しました。

 

そんな中身の濃い多くの仕事を経験したことで、離れられなくなってしまいました。

 

それからは、転職のリクルート活動をこなしながら、お世話になった多くの方々への挨拶回りに暮れる日々となりました。

 

 

因みに、独立した今では、そのチェーン店様から、独立当初より定期的に今も、お仕事を頂戴しています。

 

当時では理解できなかった社長の問い掛けも、今では、理解できる様にもなりました。

 

 

そんな時、某テレビ局の役員さんに、挨拶に行った時です。

紹介したい会社があると言われ、取り敢えず、面接を受けてみてよとの事で、ご紹介頂く事になりました。

 

その会社の社長との面接では、それまで、営業マンとして13年の経験でしたが

企画制作課のディレクター職として来てほしいとのことでした。

 

「デザイン作業とかはできませんが、良いのでしょうか。」

と言いましたが、大丈夫だからと…、即採用。

 

1996年、平成8年8月より、子会社の制作会社も含めて、

そこで、10年間を過ごす事になります。

 

 

 

まとめ

 

大学を3年で中退して、飛び込んだ広告業界、販促の制作を中心とした代理店、ハワイでのビデオプロダクションを併設していた、広告会社と言う概念を教わった総合広告代理店、イベント会社、そして、ハウスエージェンシーという総合広告代理店を経験しました。

 

ここまでの4社では、基本1人で業務をこなして行くポジションで、社内のチームで仕事を遂行して行くと言う経験はありませんでした。

 

そんな、私に次に経験する会社は、一転、チームで、組織で仕事をして行くこととなります。

 

 

 

 

2020.09

 

 

 

この記事を書いた人

古野 徹
株式会社リップル
代表取締役
マーケティング・コンサルタント

広告関連企業8社に従事して36年超。
ありとあらゆる業務を経験してきたノウハウを活かし、総合広告代理店、㈱リップルを設立する。

創業15周年の通過点に向けて、新規事業として、中小企業を対象とした、「マーケティングに関するコンサルティング事業」サービスの提供を開業。
「心を大切にコンサルティングします。」を新たな基本理念に加え、
どうやって、集客していくのか、
どうやって、売り上げを伸ばしていくのか、
どうやって、新たなお客さんやサプライヤーと繋がっていくのか、
どうやって、人財を確保していくのか、
どうやって、災害や緊急事態に対応していくのか、等々、
益々、社会での存在意義を示していくことが重要な課題になってきている中小企業に対して、わかっているようで、わかっていない「マーケティング」、今更、聞くに聞けない「マーケティング」の事など、総合的なマーケティング活動の施策支援のサービスが提供できるように、絶えず精進を続けている。

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